地下足袋山中考 NO22

<森吉山スキー場の変遷D 山頂部スキー場開発の攻防その4>

1988(S63)411日、「森吉山山頂部をスキー場開発から守る会」は、会の名称を「森吉山の自然を守る会」に変更。山頂部スキー場開発をひとまず阻止したことにより、年々減少の一途を辿る自然公園内のブナ林の保護運動に活動の中心を置くことにした。特に、@森吉山本体や奥森吉・奥阿仁の源流部に及ぶ伐採の中止。Aクマゲラの森の拡大。B登山道等の整備を求める運動を開始した▲一方、オープン2年目にして21万人(計画26万人)のスキーヤーが訪れたが、雇用は両町合わせて60(アルバイト、季節雇用が大半)、民宿の利用や物資の調達は期待外れだった。当時、森吉町長であった高田要蔵氏(故人)が期待値から付けた点数は、宿泊客20点、物資30点、雇用60点だった▲阿仁町中心に組織された森吉山スキー場整備拡大促進協議会は、@現状では地元への波及効果がない。A山頂部開発がこのスキー場開発の目玉である。Bスキーヤーが山麓の2つのスキー場をつなぐ山頂部スキー場を要望している。などの主張を前面に出し、いったん棚上げとなった山頂部スキー場開発計画を再び実行に移すべく、秋田県に開発の協力を要請。県もこれに呼応して山頂部開発に意欲をみせた▲山頂部開発が具体化しないまま、秋田県は、国が進めるリゾート法(1987.S62制定)に基づき、「北緯40°シーズナルリゾートあきた」構想を公表(1989.H1.3)し、全県に9ヶ所の重点整備地域を指定した。森吉山麓は森吉山地区、奥阿仁地区、奥森吉地区の三つの重点整備地区が示され、1990(H2)年に森吉山両スキー場と阿仁のペンション団地は同構想に組み入れられた。同年にかけて、阿仁町がスキー場直下に造成した高津森団地には体験実習館他ペンション5軒が相次いでオープンしたが、日帰り客相手に宿泊客は伸び悩んだ▲90年代に入るとリゾート法を背景とした大型スキー場開発に見直しの動きがでてきた。長野オリンピック滑降コース建設で問題になった岩菅山は、自治体、競技団体、自然保護団体などを巻き込み社会問題化し、10年間の論争の末、当時、JOC会長だった堤義明氏と長野県は開発を断念した。西武グループも、得意のスキー場、ゴルフ場、ホテルの三点セットリゾートを全国に展開したが、各地で自然保護団体と衝突していた▲1990(H2)6月、()日本自然保護協会は、同じ自然公園第一種特別地域の開発で論争が続いていた、森吉山と北海道夕張岳の開発断念を求める意見書を、地元保護団体は申入れ書を同時に秋田県と国土計画()に提出した。同年727日、国土計画は夕張岳スキー場第一種特別地域の開発を断念した▲森吉山山頂部(連瀬)スキー場も決着の時期にきていた。1990(H2)828日、一向に進展がない山頂部開発について5者会談(国土計画、阿仁町、森吉町、秋田県、促進協、森吉山の自然を守る会)が開催された。席上、守る会は明確な山頂部開発の断念を訴えた。促進協の北林会長(県議)からは、@稜線部を仮設の索道でつなげないか。A山腹をアクセス道路でつなぐ等の案は出たが、気象条件が厳しいことやゲレンデとして魅了に乏しいなど、山頂部開発を唱える声は既に薄れていた。席上で国土計画の三上部長は「地元の理解と合意を得られない開発は当社としては実行しない」ことを言明。この瞬間、山頂部開発は事実上の断念となった▲山頂部開発は断念したが、両スキー場コースの充実を図ることで合意。12月には森吉スキー場に第二高速リフトと120人収容のヒュッテが完成。阿仁スキー場には1.2キロのサンシャインコースが新設された。しかし、1992(H4)年の22万人をピークに利用客は漸減していくことになる。

2010.11.7)<次号につづく>